『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔021

小説

 そして今、姉が追い詰めている犯人は、あの時の男以上に歪(いびつ)だ。
「愛しているから壊す」。
「人間をモノとして愛でる」。
 そんな矛盾し、ねじれ切った感情の濁流を、もし至近距離で浴びせられたら?
 単純な「悪意」なら、まだ拒絶できるかもしれない。けれど、この犯人が抱えているのは「愛」という皮を被った「執着」だ。
 甘くて、腐っていて、粘着質なその感情が、私の心の隙間に入り込んでくるのを想像するだけで、鳥肌が止まらない。
 (……耐えられる?)
 私は自分の胸を強く押さえた。心臓が早鐘を打っている。
 隣にいる煌良ちゃんの悲しみでさえ、こんなに苦しいのに。
 もし犯人と対峙して、その狂気の全貌(フルボリューム)が私の中に流れ込んできたら。
 私は「感情の通訳者」としての機能を焼き切られ、廃人になってしまうのではないか。
 バックミラーを見る。
 姉はいい。姉は「無風地帯」にいる。
 論理という最強の鎧を着ているから、どんな悪意も彼女を傷つけない。彼女の瞳は、深淵を覗き込んでも決して揺らぐことはない。
 でも、私は違う。
 私は鎧を持たない。全身が剥き出しの感覚器のようなものだ。
 犯人の悪意も、孤独も、快楽も、すべてを生身で受け止め、共鳴してしまう。
「……っ」
 呼吸が浅くなる。
 車内の湿った生温い空気が、犯人の吐息のように感じられて、私は思わず口元を手で覆った。
 逃げ出したい。けれど、逃げられない。
 タイヤがアスファルトを噛む音が、私たちを逃れられない結末へと運んでいくカウントダウンのように聞こえた。
 その時、車が減速し、赤信号で滑らかに停止した。
 姉がポケットからスマートフォンを取り出し、手慣れた様子で操作してダッシュボードのホルダーに置いた。
 カーステレオの画面が切り替わり、呼び出し音が車内のスピーカーから大きく響く。
 プルルルル……。
 数回のコールの後、カチリと繋がり、懐かしくも騒がしい声が車内に炸裂した。
『なになに、カホちゃん!? 珍しいじゃん、遊びの誘い!?』
 保科琳久(ほしな りんく)。
 姉の高校時代からの親友であり、MIT帰りの天才ハッカーだ。
 その底抜けに明るい声は、この場の陰鬱な空気を吹き飛ばす威力を持っていた。
『いいねいいね! どこ行く? そうそう、こないだめっちゃ美味しいお店見つけたから、行かない? 超おすすめだよ! ……って、おい! 無言電話か! イタズラか! なんか言えよ天才!』
 スピーカーからマシンガンのように言葉が飛んでくる。
 姉はハンドルを指でトントンと叩きながら、無表情で一言だけ発した。
「……終わった?」
『何それ! ひどくない!? 久しぶりの電話で第一声がそれ!? そういえば帰国したんだよね! おかえり! ……って、おい、無視すんなよ!』
「この後、今から彩心(いろは)が送る住所に来れる?」
『え、なになに! 行く行く! で、どこ?』
 姉は琳久さんの返事など聞いていないかのように、バックミラー越しに私へ指示を飛ばした。
「彩心。煌良の店の住所、琳久に送って」
『ちょっと、また無視ですか! ……え、そんなことより、今『煌良』って言った? 煌良かぁ~! 懐かしい! 最近会ってないなぁ……って、私がアメリカにいたんだから仕方ないけどさ!』
 琳久さんが一人で盛り上がり、喋り続けている間に、私は慌ててスマートフォンを取り出し、LINEで店の位置情報を送信した。
『お! 届いたよ! ……ここって、煌良のお店?』
「どのくらいで着く」
『そうだねー、今近くにいるから……タクシー飛ばせば30分くらいかな?』
「そう。じゃあ、『道具』持って、お願いね」
『えっ、ちょっと待ってよ! もっと話そうよ! 面白い話があ……』
 ブチッ!
 姉は、画面の「通話終了」ボタンを無慈悲にタップした。
 ふっ、と車内に静寂が戻る。
 あまりの早業と容赦のなさに、私は唖然とし、隣で泣いていた煌良ちゃんさえも、涙を浮かべたまま「えっ……?」と目を丸くしていた。
「……相変わらずね」
 姉が小さく呟き、信号が青に変わると同時にアクセルを踏んだ。
 姉の言った『道具』とは、琳久さんが愛用しているハイスペックなノートPCや、解析用の周辺機器一式のことだ。
 「何が必要か」などと詳しく言わなくても、たった一言で意図が通じてしまうあたり、二人が高校時代から培ってきたツーカーの仲が窺える。
 まあ、そもそも私は、琳久さんがその『道具』を片時も手放している姿を見たことがないのだけれど。
 それからしばらくして、車が減速し、ウインカーのカチカチという音がリズムを刻んだ。
 『Royal Leaf』――煌良ちゃんの店の前にある駐車場へと、赤いタントが滑り込む。
 エンジンが切られ、雨音だけが車内を包み込む静寂が訪れる。
 けれど、さっきまでの絶望的な重苦しさは、琳久さんの声のおかげか、少しだけ薄らいでいた。
 姉はシートベルトを外しながら、後部座席の私たちを振り返った。
 その目は、先ほどまでの攻撃的な光を消し、少しだけ柔らかなものに戻っていた。
 姉は、私の震えには気づいていない。……いや、気づいていても、今は何も言わないだけかもしれない。
「煌良。辛いでしょうけど、店を開けてくれる? ……最高の紅茶が必要なの」
「え……?」
 泣きはらした目で顔を上げる煌良ちゃんに、姉は静かに、しかし断固として告げた。
「犯人を捕まえるための『作戦会議』を始めるわ。……強力な協力者も、すぐに来るから」
『霧笛のティーハウス』に戻ると、店内の空気はひんやりと沈殿していた。
 煌良ちゃんが震える手で鍵を開け、照明のスイッチを入れる。
 パチ、パチ、と灯りがともるたびに、この店が持っていた温かな魔法が、少しずつ息を吹き返していくのがわかった。
「……座ってて。すぐに淹れるから」
 煌良ちゃんは無理に作った笑顔を私たちに向け、カウンターの中へと入っていった。
 その背中から立ち上る感情の波形を、私はまともに浴びてしまう。
 『悲しい』『悔しい』『怖い』。
 それらが混ざり合い、鉛のように重く、冷たい粒子となって私の肌にまとわりつく。
 彼女は気丈に振る舞おうとしている。プロとして、客である私たちに最高の一杯を出そうと、必死に自分を奮い立たせている。
 その健気さが、私の胸を万力で締め上げるように苦しめた。
 (……泣かないで、私)
 私が泣けば、煌良ちゃんはもっと辛くなる。
 私は拳を固く握りしめ、爪を掌に食い込ませることで、共鳴しようとする自分の心を物理的な痛みで押し留めた。

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