けれど、その沈黙は決して拒絶ではない。 普段は無口で、他者に興味を示さない姉が、煌良ちゃんの前だと不思議と口数が増え、会話が弾む。いつもの絶対零度の空気が鳴りを潜め、姉からふわりとした温かい風が吹いてくるのを感じるのだ。
煌良ちゃん自身は無自覚なのだろうけれど、彼女は人として「最強の能力」を持っていると思う。 自然と人を惹きつけ、どんなに堅い心も和ませてしまう、陽だまりのような引力。 論理の鎧でガチガチに武装した姉の心さえも、美味しい紅茶と一緒に解きほぐしてしまうのだから、彼女こそが真の強者なのかもしれない。
この穏やかなティータイムが、これから始まる事件の前の、最後の静寂であることを、私たちはまだ知らなかった。
ひとしきり笑い合った後、ふと会話が途切れた瞬間だった。 煌良ちゃんの表情が、急に曇った。まるで、カップの底に沈殿した茶葉の澱(おり)を見つめるような、暗く、重い瞳だった。
カウンターの中にいる彼女が、少しだけ身を乗り出してくる。その体から発せられる「不安」の波長が、私の肌をチリチリと刺した。
「そういえば、煌良ちゃん。……何か、佳穂に相談があるんじゃなかった?」
私が助け舟を出すと、煌良ちゃんはハッとしたように顔を上げ、そして意を決したように語り始めた。
「……うん。ねえ、佳穂。彩心ちゃんにも話したんだけど、ちょっと相談に乗って欲しいことがあるの」
「相談?」
姉はカップをソーサーに戻し、興味なさそうに首を傾げた。その仕草だけで、美しい黒髪がさらりと流れる。今の姉の脳内リソースは、久しぶりの日本と紅茶を楽しむことに割かれている。面倒ごとは御免だというオーラが隠せていない。
煌良ちゃんは一度深呼吸をして、重い口を開いた。
「私の大学時代の友人で、久世美月(くぜみつき)って子がね……最近、誰かに見られている気がするって怯えているの」
「ストーカー? それは警察の管轄(領分)よ」
姉は即答し、再び紅茶に口をつけた。予想通りの反応だ。
「警察には相談したみたいなの。でも、『具体的な被害がないと動けない』って言われたらしくて……。つきまとわれている証拠写真があるわけでもないし、脅迫状が届いたわけでもない。ただ、視線を感じるって」
「自意識過剰の可能性は?」
「美月はそんな子じゃないわ! それに……」
煌良ちゃんが言葉を濁し、視線を泳がせた。何か、言い淀んでいることがある。私は彼女の迷いを察し、「それに?」と先を促した。
彼女は声を潜め、まるで口にするのも忌まわしいもののように告げた。
「……贈り物が、届くの」
「贈り物?」
「ええ。最初は花束だった。次は、綺麗な箱に入ったオルゴール。それも、美月が昔好きだった曲のもの。でも、差出人の名前はないの」
「ファンによる求愛行動ね。典型的だわ」
姉の声は平坦だ。退屈そうに、長い指先でテーブルをトントンと一定のリズムで叩き始めている。これは姉の「飽きた(興味消失)」のサインだ。ありふれたストーカー事案に、これ以上思考のリソースを割く価値はないと判断している。
だが、煌良ちゃんは引かなかった。
「違うの、佳穂。問題なのは中身じゃないの。……その『状態』なのよ」
「状態?」
初めて、姉の手がピタリと止まった。
「花束は、枯れていたの。完全に、ドライフラワーみたいにカサカサに乾いていて、花弁がボロボロと崩れ落ちるくらい。……でも、リボンだけは新品だった」
煌良ちゃんの声が微かに震える。
「オルゴールも、音は鳴るんだけど……中の機械部分が、赤錆びていたの。まるで、何十年も土の中に埋まっていたみたいに、ボロボロに腐食していて……」
店内の空気が、すっと冷えた気がした。私の背筋に、生理的な嫌悪感が這い上がる。枯れた花と、錆びついたオルゴール。それは求愛というより、まるで――。
「――『墓供え(グレイヴ・オファリング)』ね」
姉が、絶対零度の声で呟いた。 その瞳から、退屈の色が消え失せ、鋭い光が宿る。獲物を見つけた猛禽類の目だ。
「興味深いわ。ただのストーカーなら『自分の存在』をアピールするために、新品の、高価なものを贈りたがるものよ。でも、この犯人は違う。彼が贈っているのは『時間の経過(パッセージ・オブ・タイム)』だわ」
「パッセージ・オブ・タイム……?」
「ええ。犯人の中で、その久世美月という女性は、すでに『過去の存在(パスト・イグジスタンス)』になりかけているのかもしれない。あるいは……とっくに死んでいる誰かと重ねているか」
姉はカップの中の紅茶を一気に飲み干すと、ソーサーにことりと置いた。その音は、まるで何かの開始を告げる合図のように響いた。
「いいわ。その友人に会ってみましょう」
「本当!? ありがとう、佳穂!」
「ただし」
姉は人差し指を立てて、煌良ちゃんを制した。
「会うのは3日後。帰国したばかりで、生体リズム(私のバイオリズム)と感覚の再調整(キャリブレーション)が必要よ。万全の状態でないと、微細な違和感を見逃す可能性がある」
それは姉なりの「プロとしての流儀」だったのだろう。けれど、この「3日」という時間が、後にどれほどの意味を持つことになるか、この時の私たちは知る由もなかった。
「それまでに、その贈り物の写真と、彼女の基本データを送って」
「わかった! すぐに美月に連絡する。3日後の午後、ここに来てもらうようにするね」
煌良ちゃんの顔に、ようやく安堵の笑顔が戻った。私は手帳を取り出し、新しい予定を書き込んだ。
『4月5日 14:00 久世美月さんと面談』
ペンのインクが、白い紙に滲む。 それが、これから始まる悪夢への招待状だとは知らずに、私はページを閉じた。


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