『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔022

小説

深呼吸をして、肺に溜まった他人の悲しみを吐き出す。
 大丈夫。私は「通訳者」だ。溺れてはいけない。

 コト、と微かな音を立てて、湯気の立つティーカップが置かれた。

「おまたせ。……今日は、アッサムのミルクティーにしたわ」

 煌良ちゃんの声は、まだ少し鼻声だったけれど、さっきよりは芯が通っていた。
 温かいミルクの香りと、アッサム特有の芳醇なコクのある香り。
 それは、傷ついた心を優しく包帯で巻くような、慈愛に満ちた香りだった。

「ありがとう、煌良ちゃん」

 一口飲むと、温かい液体が食道を通り、冷え切っていた胃袋に落ちていく。
 その熱が、私の震えを少しずつ鎮めてくれた。
 私たちは無言で紅茶を啜った。

 静寂。
 しかし、それは穏やかな午後の静寂ではない。
 これから嵐の中に飛び込む前の、張り詰めた緊張感が漂う静寂だ。

 私はカップの縁を見つめながら、これから対峙する「見えない敵」のことを考えていた。

 姉のプロファイルによれば、犯人は「偏執的(パラノイア)」で「自己愛的」な人物。
 もし、そいつと向かい合ったら。
 私の精神(アンテナ)は、どんなノイズを拾ってしまうのだろう。
 ドス黒いヘドロのような悪意か。
 それとも、底なしの虚無か。

 想像するだけで、指先の感覚が麻痺しそうになる。
 その時だった。

 バンッ!!

 店の重厚なドアが、まるで爆風を受けたかのように勢いよく開かれた。

 『ボーッ……』と鳴るはずのベルが、激しい衝撃で「ジャラッ!」と悲鳴を上げる。

「ちゃーっす!! お待たせ!」

 沈殿していた店内の空気を、極彩色の竜巻が吹き飛ばした。
 ピンクとブルーのメッシュが入った髪。
 ダボダボのパーカーに、蛍光色のスニーカー。
 そして背中には、自分の体ほどもありそうな巨大なバックパック。

 保科琳久(ほしな りんく)。
 この重苦しい世界に似つかわしくない、ポップな異分子の登場だ。
 琳久さんはサングラスをずらし、大げさに肩をすくめてみせた。

「いやー、表に『CLOSE』って看板出てるからさー、入るの躊躇しちゃったよー。まじビビるわー」

 (……どこが?)

 私は心の中で即座にツッコミを入れた。
 躊躇した人間のドアの開け方じゃない。鍵がかかっていても蹴破って入ってきそうな勢いだったくせに。
 琳久さんはキョロキョロと店内を見回すと、私たちを見つけてニッと笑った。

「おっ、いたいた。えーっと……天才(カホ)と、その彩心ちゃん(妹)! ……それと、誰だっけ?」

 琳久さんは、目が赤く腫れ上がった煌良ちゃんを指差し、わざとらしく首を傾げた。

「ひどい! 煌良よ!」

 煌良ちゃんが、涙声で、けれど反射的に抗議の声を上げる。

「3年ぶりだからって、忘れないでよ……!」
「あはは、知ってるよ」

 琳久さんは悪びれもせず、軽い調子で笑った。

「あんまり暗い顔してたからさ。……よかった。怒る元気はあるみたいじゃん」
「もう……!」

 3年ぶり。
 そう、私たちが前回顔を合わせたのは、3年前――私と姉の両親の葬儀の時だった。
 当時、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)に正規留学中だった琳久さんは、訃報を聞くや否や、全ての予定をキャンセルして飛んで帰ってきてくれたのだ。
 黒い喪服に派手な髪色。けれど、誰よりも真剣な目で、姉と私に寄り添ってくれた彼女の優しさを、私は忘れていない。

 琳久さんはドサリと荷物を床に置くと、コンビニの袋をカウンターに放り投げた。中から大量のチョコレートとグミが転がり出る。
 そのあけすけな態度に、煌良ちゃんの肩からふっと力が抜けたのがわかった。
 重く張り詰めていた空気が、琳久さんの軽口ひとつで、パリンと割れたのだ。

 琳久さんは、遠慮という言葉を知らないらしい。
 呆気にとられる私たちを他所に、彼女は我が物顔で空いている椅子を引き寄せると、コンビニ袋から出したポテトチップスの袋を豪快に開けた。

「んー、うま! ねぇ彩心ちゃんも食べる? のり塩だよ?」
「あ、いえ……私は大丈夫です」
「そっか。煌良は? あ、泣き止んだ?」

 パリパリと軽快な音を立ててポテトチップスを頬張る琳久さんに、横から冷ややかな声が刺さった。

「琳久。飲食店に食べ物を持ち込んで、しかも堂々と広げて食べるとか、非常識極まりないわよ」

 姉が、呆れたようにため息をつく。

「だからアメリカ帰りは……自由と放縦(ほうじゅう)を履き違えているんじゃないの?」
「えー、いいじゃん別に。ここ『クローズ』だし! 貸し切りだし!」

 琳久さんは口元についた青のりを舐め取りながら、ふてぶてしく言い返した。

「てか、あんたに言われたくないわ、このイギリス!」
「……イギリスは国名よ。悪口の定義に含まれないわ」

 低レベルな言い争い。けれど、その遠慮のないやり取りを見て、煌良ちゃんが涙を拭いながら、呆れたように、けれどどこかホッとしたように笑った。
 この場の誰もが、琳久さんの持つ底抜けの明るさと、そのデリカシーのなさに救われていた。

 保科 琳久。
 姉の高校時代からの同級生であり、この派手な見た目で、MITを飛び級で卒業した、国内でも指折りの情報分析官(スペシャリスト)だ。

 それにしても、不思議な組み合わせだ。
 論理と規律の塊のような姉と、カオスと自由を愛する琳久さん。
 水と油のような二人が、なぜ親友なのか。
 その理由は、二人が高校2年生の時に起きた「ある事件」にあると聞いたことがある。

 当時、叡理高校の中でも指折りの問題児だった琳久さんは、学校のメインサーバーに侵入し、自分の遅刻データを書き換えるという悪戯を常習的に行っていたらしい。
 痕跡を残さない、完全犯罪のはずだった。

 だがある日の放課後。パソコン室でハッキング作業をしていた琳久さんの背後に、音もなく佳穂が現れた。

『……君のアルゴリズムは美しいけれど、無駄(リダンダンシー)が多いわ』

 いきなり背後から囁かれた琳久さんは、驚いて椅子から転げ落ちそうになったそうだ。
 普通なら、不正を見咎めて教師に突き出すところだろう。
 けれど、姉は琳久さんの不正を咎めるでもなく、倫理を説くでもなく、ただ近くにあったホワイトボードにサラサラと数式を書き始めたという。

『この行とこの行を統合すれば、処理速度は0.4秒短縮できる。あと、侵入ログの消去方法が雑(ラフ)すぎるわ。これだと教頭先生レベルにはバレなくても、外部のセキュリティ会社が定期監査に入れば一発で検知される』
『……は?』
『修正しておいた方がいい。……論理的に美しくないから』

 そう言い残して、姉は興味なさそうに去っていった。
 「悪いことだからやめなさい」ではなく、「やるなら完璧にやりなさい」。それが姉の流儀だったのだ。

 翌日、琳久さんが半信半疑で姉の言った通りにコードを修正してみると、驚くべきことに処理速度が劇的に向上し、痕跡も完全に消滅したという。
 それ以来、琳久さんは「この変な天才」に興味を持ち、姉もまた「私の論理についてこられる稀有な人間」として琳久さんを認めた。
 共犯関係から始まった友情は、国境を越えて今も続いているのだ。

「……で、カホ。イギリスはどうだったわけ? 向こうの男も論破して泣かせてきた?」

 琳久さんがポテトチップスをかじりながら、ニヤニヤと姉に話しかける。

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