深呼吸をして、肺に溜まった他人の悲しみを吐き出す。
大丈夫。私は「通訳者」だ。溺れてはいけない。
コト、と微かな音を立てて、湯気の立つティーカップが置かれた。
「おまたせ。……今日は、アッサムのミルクティーにしたわ」
煌良ちゃんの声は、まだ少し鼻声だったけれど、さっきよりは芯が通っていた。
温かいミルクの香りと、アッサム特有の芳醇なコクのある香り。
それは、傷ついた心を優しく包帯で巻くような、慈愛に満ちた香りだった。
「ありがとう、煌良ちゃん」
一口飲むと、温かい液体が食道を通り、冷え切っていた胃袋に落ちていく。
その熱が、私の震えを少しずつ鎮めてくれた。
私たちは無言で紅茶を啜った。
静寂。
しかし、それは穏やかな午後の静寂ではない。
これから嵐の中に飛び込む前の、張り詰めた緊張感が漂う静寂だ。
私はカップの縁を見つめながら、これから対峙する「見えない敵」のことを考えていた。
姉のプロファイルによれば、犯人は「偏執的(パラノイア)」で「自己愛的」な人物。
もし、そいつと向かい合ったら。
私の精神(アンテナ)は、どんなノイズを拾ってしまうのだろう。
ドス黒いヘドロのような悪意か。
それとも、底なしの虚無か。
想像するだけで、指先の感覚が麻痺しそうになる。
その時だった。
バンッ!!
店の重厚なドアが、まるで爆風を受けたかのように勢いよく開かれた。
『ボーッ……』と鳴るはずのベルが、激しい衝撃で「ジャラッ!」と悲鳴を上げる。
「ちゃーっす!! お待たせ!」
沈殿していた店内の空気を、極彩色の竜巻が吹き飛ばした。
ピンクとブルーのメッシュが入った髪。
ダボダボのパーカーに、蛍光色のスニーカー。
そして背中には、自分の体ほどもありそうな巨大なバックパック。
保科琳久(ほしな りんく)。
この重苦しい世界に似つかわしくない、ポップな異分子の登場だ。
琳久さんはサングラスをずらし、大げさに肩をすくめてみせた。
「いやー、表に『CLOSE』って看板出てるからさー、入るの躊躇しちゃったよー。まじビビるわー」
(……どこが?)
私は心の中で即座にツッコミを入れた。
躊躇した人間のドアの開け方じゃない。鍵がかかっていても蹴破って入ってきそうな勢いだったくせに。
琳久さんはキョロキョロと店内を見回すと、私たちを見つけてニッと笑った。
「おっ、いたいた。えーっと……天才(カホ)と、その彩心ちゃん(妹)! ……それと、誰だっけ?」
琳久さんは、目が赤く腫れ上がった煌良ちゃんを指差し、わざとらしく首を傾げた。
「ひどい! 煌良よ!」
煌良ちゃんが、涙声で、けれど反射的に抗議の声を上げる。
「3年ぶりだからって、忘れないでよ……!」
「あはは、知ってるよ」
琳久さんは悪びれもせず、軽い調子で笑った。
「あんまり暗い顔してたからさ。……よかった。怒る元気はあるみたいじゃん」
「もう……!」
3年ぶり。
そう、私たちが前回顔を合わせたのは、3年前――私と姉の両親の葬儀の時だった。
当時、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)に正規留学中だった琳久さんは、訃報を聞くや否や、全ての予定をキャンセルして飛んで帰ってきてくれたのだ。
黒い喪服に派手な髪色。けれど、誰よりも真剣な目で、姉と私に寄り添ってくれた彼女の優しさを、私は忘れていない。
琳久さんはドサリと荷物を床に置くと、コンビニの袋をカウンターに放り投げた。中から大量のチョコレートとグミが転がり出る。
そのあけすけな態度に、煌良ちゃんの肩からふっと力が抜けたのがわかった。
重く張り詰めていた空気が、琳久さんの軽口ひとつで、パリンと割れたのだ。
琳久さんは、遠慮という言葉を知らないらしい。
呆気にとられる私たちを他所に、彼女は我が物顔で空いている椅子を引き寄せると、コンビニ袋から出したポテトチップスの袋を豪快に開けた。
「んー、うま! ねぇ彩心ちゃんも食べる? のり塩だよ?」
「あ、いえ……私は大丈夫です」
「そっか。煌良は? あ、泣き止んだ?」
パリパリと軽快な音を立ててポテトチップスを頬張る琳久さんに、横から冷ややかな声が刺さった。
「琳久。飲食店に食べ物を持ち込んで、しかも堂々と広げて食べるとか、非常識極まりないわよ」
姉が、呆れたようにため息をつく。
「だからアメリカ帰りは……自由と放縦(ほうじゅう)を履き違えているんじゃないの?」
「えー、いいじゃん別に。ここ『クローズ』だし! 貸し切りだし!」
琳久さんは口元についた青のりを舐め取りながら、ふてぶてしく言い返した。
「てか、あんたに言われたくないわ、このイギリス!」
「……イギリスは国名よ。悪口の定義に含まれないわ」
低レベルな言い争い。けれど、その遠慮のないやり取りを見て、煌良ちゃんが涙を拭いながら、呆れたように、けれどどこかホッとしたように笑った。
この場の誰もが、琳久さんの持つ底抜けの明るさと、そのデリカシーのなさに救われていた。
保科 琳久。
姉の高校時代からの同級生であり、この派手な見た目で、MITを飛び級で卒業した、国内でも指折りの情報分析官(スペシャリスト)だ。
それにしても、不思議な組み合わせだ。
論理と規律の塊のような姉と、カオスと自由を愛する琳久さん。
水と油のような二人が、なぜ親友なのか。
その理由は、二人が高校2年生の時に起きた「ある事件」にあると聞いたことがある。
当時、叡理高校の中でも指折りの問題児だった琳久さんは、学校のメインサーバーに侵入し、自分の遅刻データを書き換えるという悪戯を常習的に行っていたらしい。
痕跡を残さない、完全犯罪のはずだった。
だがある日の放課後。パソコン室でハッキング作業をしていた琳久さんの背後に、音もなく佳穂が現れた。
『……君のアルゴリズムは美しいけれど、無駄(リダンダンシー)が多いわ』
いきなり背後から囁かれた琳久さんは、驚いて椅子から転げ落ちそうになったそうだ。
普通なら、不正を見咎めて教師に突き出すところだろう。
けれど、姉は琳久さんの不正を咎めるでもなく、倫理を説くでもなく、ただ近くにあったホワイトボードにサラサラと数式を書き始めたという。
『この行とこの行を統合すれば、処理速度は0.4秒短縮できる。あと、侵入ログの消去方法が雑(ラフ)すぎるわ。これだと教頭先生レベルにはバレなくても、外部のセキュリティ会社が定期監査に入れば一発で検知される』
『……は?』
『修正しておいた方がいい。……論理的に美しくないから』
そう言い残して、姉は興味なさそうに去っていった。
「悪いことだからやめなさい」ではなく、「やるなら完璧にやりなさい」。それが姉の流儀だったのだ。
翌日、琳久さんが半信半疑で姉の言った通りにコードを修正してみると、驚くべきことに処理速度が劇的に向上し、痕跡も完全に消滅したという。
それ以来、琳久さんは「この変な天才」に興味を持ち、姉もまた「私の論理についてこられる稀有な人間」として琳久さんを認めた。
共犯関係から始まった友情は、国境を越えて今も続いているのだ。
「……で、カホ。イギリスはどうだったわけ? 向こうの男も論破して泣かせてきた?」
琳久さんがポテトチップスをかじりながら、ニヤニヤと姉に話しかける。


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