* * *
それから1時間後。
まだ夜明け前だというのに、警視庁本部の廊下は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
寝起きのような顔をした捜査員たちが走り回り、電話のベルが鳴り止まない。
その喧騒の中を、私は刑事部長室へと急いだ。
窓の外を見ると、空はこれから始まる悪夢を予見するように、重く湿った鉛色をしていた。
私の靴音が、硬質なリノリウムの床に冷たく響く。
すれ違う捜査員たちの顔には、隠しきれない動揺が張り付いていた。無理もない。
「7体の遺体発見」。
この一報は、単なる事件の発生ではなく、警察の威信に関わる「スキャンダル」の発生を意味している。我々の足元で、これほどの大量殺人が見過ごされていたのだから。
「……遅いぞ、水谷川」
刑事部長室の重厚なドアを開けると、清浄な空気と共に、腹に響くような低い声が飛んできた。
部屋の主、真田 遼太郎(さなだ りょうたろう)刑事部長だ。52歳。
彼は国家公務員試験をパスした正真正銘のキャリア官僚(警視監)だが、その風貌はいわゆる「エリート」のイメージからは程遠い。岩のように厳つい顔つきと、現場の捜査員を震え上がらせる眼光から、陰では「鬼瓦」と呼ばれている。
書類仕事よりも検挙率を愛する、現場主義の武闘派キャリアだ。
だが、今日の部屋の空気は、彼一人の威圧感だけではなかった。
応接セットのサイドテーブルには、手つかずのコーヒーが冷めきっており、異様な緊張感が漂っている。
「呼び立ててすまないね、水谷川警視」
革張りのソファに、細身のスーツを隙なく着こなした男が、優雅に足を組んで座っていた。
佐伯 宗一郎(さえき そういちろう)副総監。
55歳。真田部長とは対照的な、冷ややかな知性を漂わせる理知的なキャリア官僚(警視監)だ。その銀縁眼鏡の奥の瞳は、常に数手先を見据えて計算している。
(……副総監まで)
私は内心の警戒心を仮面の下に隠し、背筋を伸ばして敬礼した。
「失礼いたします。只今、到着いたしました」
「座りたまえ」
佐伯副総監が、白い指先で向かいのソファを促す。
私が腰を下ろすと、真田部長がデスクの上の資料を、苛立ちを隠そうともせずに放るように置いた。
「多摩の件だ。報告は聞いているな?」
「はい。土砂の中から7体の遺体。いずれも若年女性と見られる、と」
「ああ。所轄からの報告では、死後数年経過しているものも混ざっているらしい。……厄介なヤマだ」
真田部長が苦々しげに顔を歪める。
7人の死者。それも若い女性ばかり。
マスコミが嗅ぎつければ、蜂の巣をつついたような騒ぎになることは火を見るよりも明らかだ。「警察の失態」「未解決の連続殺人」として、世論の集中砲火を浴びることになる。
佐伯副総監が、薄い唇を吊り上げて微笑んだ。
その笑みは、獲物を前にした蛇のように冷たい。
「そこでだ、水谷川くん。単刀直入に言おう。今回の事件、君に管理官(指揮)を任せたい」
「……私が、ですか」
私は眉ひとつ動かさずに問い返した。
通常、この規模の事件であれば、序列の高いベテラン管理官が指揮を執るのが通例だ。私のような若手の女性管理官にお鉢が回ってくるのは、どう考えても不自然だ。
「通常であれば、遺体発見現場の所轄署に捜査本部を立てるのが筋だ。だが、今回は被害者の数が多すぎる上、身元が判明すれば、被害者の居住地は都内全域、あるいは県外に散らばっている可能性が高い。所轄の手に負える規模ではない」
佐伯副総監は、テーブルの上で両手を組み、まるでチェスの駒を動かすように指先を動かした。
「よって、今回は異例だが、警視庁内に特別捜査本部を設置する。各方面からの混成部隊となるが、その指揮を……柔軟な発想と、高い統率力を持つ君に執ってもらいたい」
もっともらしい理屈だ。
だが、私はその言葉の裏にある「政治」の腐臭を瞬時に嗅ぎ取った。
この事件は、諸刃の剣だ。
早期解決に成功すれば、その功績は計り知れない。警察史に残る英雄となり、出世コースは約束される。
だが、失敗すれば?
未解決のまま泥沼化すれば、降格人事で管理官の職を解かれるだけでは済まない。懲戒処分、あるいは地方への左遷。キャリアとしての死を意味する。
真田部長も佐伯副総監も、自分の「子飼い」の部下にはやらせたくないのだ。可愛がっている部下を、こんなハイリスクな地雷原に放り込みたくはない。
そこで白羽の矢が立ったのが、私――水谷川芽瑠だ。
そして、知っているのだ。
私が、現・警視総監である桐生智也の遠縁にあたり、いわゆる「総監派」と見なされていることを。
彼ら反主流派にとって、私は目の上のたんこぶだ。
成功すれば「組織の手柄」として吸い上げ、失敗すれば「総監派の無能な小娘の失態」として切り捨て、ついでに総監への攻撃材料にする。
これは、毒饅頭だ。
食えば死ぬかもしれない。だが、食わねば「命令違反」で干される。
「……光栄なお話です」
私は、佐伯副総監の目を真っ直ぐに見据えて答えた。
「ですが、確認させてください。……全権を、私に委ねていただけますね?」
「ほう?」
佐伯副総監が面白そうに目を細める。
「これだけの規模です。既存の組織論理に縛られていては、犯人に逃げられます。捜査員の選定、情報の取り扱い、他県警との折衝……すべて私の判断でやらせていただきます」
隣で真田部長が「生意気な」と唸る気配がした。
だが、佐伯副総監は鷹揚に頷いた。
「よかろう。結果を出せるなら、手段は問わない。……期待しているよ、水谷川警視」
「承知いたしました。拝命いたします」
「よし。捜査員の編成は任せるが、腹案はあるか?」
真田部長が、威圧的な体をデスクから乗り出して問うた。
私は迷わず、用意していた最強の布陣を提示した。
「はい。現場の実働部隊として、捜査一課殺人犯捜査係・宗像班を中心に据えます」
「宗像……か」
真田部長が眉をひそめ、鼻を鳴らした。
宗像 亮治(むなかた りょうじ)警部。
高卒のノンキャリアながら、その卓越した嗅覚と執念で警部まで這い上がった、捜査一課きっての現場主義者だ。
「組織の論理」や「政治的配慮」を極端に嫌い、上層部にも平気で噛みつくその態度は、管理側からすれば扱いづらい「狂犬」でしかない。実際、彼を煙たがっている幹部は多い。

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