『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔013

小説

 校庭の隅で、難解な本を読む姉と、その横でニコニコと花冠を作っている煌良ちゃん。  男子に「変な奴と遊ぶなよ!」とからかわれても、煌良ちゃんは怒りもせず、ただ不思議そうに首を傾げていた。

『どうして? 佳穂ちゃんは物知りで、すごいんだよ? 変なのは、佳穂ちゃんの話をちゃんと聞かないみんなの方だよ』 『彼らの言う通り、私に近づくのは推奨しないわ』 『え? どうして?』 『貴方まで「変な子」のカテゴリに分類されるリスクがあるから』

 幼い姉は、自分を守ってくれるはずの論理の盾で、煌良ちゃんを遠ざけようとした。けれど、煌良ちゃんはキョトンとして、花冠を姉の頭にポンと乗せたのだ。

 彼女には、偏見というフィルターがなかったのだ。姉の「論理」が、煌良ちゃんの「無垢な肯定」に負けた瞬間だったのかもしれない。

 高学年になり、姉が「ただの変人」ではなく「天才」であることが周囲に理解され始めても、状況は変わらなかった。罵声こそ減ったものの、今度は「住む世界が違う」という畏怖の念が壁となり、誰も姉に近づこうとしなかった。

 中学に入っても、それは続いた。「あの子は特別だから」というレッテルが、姉を透明なカプセルの中に閉じ込めていた。

 そんな時でも、煌良ちゃんだけは常に姉の側にいた。

 明るく、愛嬌があり、誰からも好かれる煌良ちゃんが、なぜ「異端」と呼ばれる孤高の佳穂と一緒にいるのか。周囲は不思議がっていたけれど、私にはわかっていた。理由は、私と同じだ。理屈じゃない。ただ、佳穂という人間を、心の底から好きなのだ。不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも正しくあろうとする姉の、その美しい魂に惹かれているのだ。

 姉にとって、高校生になって新たな親友たちと出会うまでの長い間、煌良ちゃんはたった一人の「理解者」であり、世界と自分を繋ぎ止めてくれる「錨(いかり)」のような存在だったに違いない。

 (だから、お姉ちゃんは焦ってるんだ……)

 私は、赤信号で停車した姉の横顔を見た。  今、姉が苛立ち、焦燥感を募らせているのは、自分の論理が通じないからだけではない。大切な親友である煌良ちゃんから、笑顔を奪った犯人が許せないのだ。煌良ちゃんの大切なものを守れなかった自分自身への怒りが、その胸の中で渦巻いている。

「……さっきから視線を感じるわ。ずっと私を見ているけれど、どうかした?」

 姉の声で、私はハッと我に返った。  青信号。タントが滑らかに発進する。

「あ、ごめん。……ねえ、お姉ちゃん」 「何?」 「絶対、見つけようね。……煌良ちゃんのために」

 姉は前を見据えたまま、一度だけ強く頷いた。

「当然よ。……私の『最適解』に、親友を悲しませるという結末(エンド)はないわ」

 その言葉は、雨音にかき消されそうなほど小さかったけれど、鋼のような強さを秘めていた。

 車は雨飛沫(しぶき)を上げ、久世美月さんが住むマンションへと到着した。

 そこは、閑静な住宅街の一角に建つ、デザイナーズマンションだった。コンクリート打ちっぱなしの外壁は、晴れた日ならスタイリッシュに見えるのだろう。けれど、降りしきる冷たい雨に濡れたその姿は、まるで感情を拒絶する巨大な墓標のように、ひどく冷たく、無機質に見えた。

「……入れないわね」

 エントランスの自動ドアの前で、姉が短く呟く。  オートロックの操作盤。部屋番号を押して呼び出し音を鳴らすが、虚しい電子音が響くだけで、応答はない。モニターの向こうは静寂に包まれている。

 姉は踵を返し、壁面に埋め込まれた集合ポストへと向かった。ダイヤル式の鍵がかかっているが、投入口の隙間から中を覗くことはできる。

 姉がスマートフォンのライトを点灯させ、その細い光を隙間に差し込む。チラシが数枚入っている程度だ。生活感の有無を判断するには少なすぎる。だが、姉の目的は郵便物の量ではないようだった。姉はライトの角度を変え、ポストの底や奥まで光を這わせ、何かを探すように視線を走らせる。そして、小さく息を吸った。

「……ないわね」 「何が?」 「『贈り物』よ。……報告にあった綺麗に包装されたものが、ここには投入されていない」

私は、一瞬安堵しかけた。

「それって、ストーカーが飽きたってこと?」

 しかし、姉はライトを消し、暗闇の中で冷徹な事実を宣告した。

「逆よ。……もう『供給』する必要がなくなったの」 「え……?」 「ストーカー行為は、対象への一方的なコミュニケートよ。自分の存在を誇示し、相手の反応を楽しむための刺激(インプット)。……それを止めたということは、犯人はもう、そんな間接的な手段に頼る必要がない状態にある」

 姉が、雨に濡れたマンションを見上げる。

「つまり――実物(ターゲット)を、すでに手に入れたということよ」

 ゾクリ、と背筋が凍った。物理的な寒さではない。姉の論理が導き出した「最悪の可能性」が、真実味を帯びて私の心臓を鷲掴みにしたのだ。

 (美月さんが……連れ去られた?)

「そんなの……わからないじゃない!」

 私の思考を遮るように、背後から煌良ちゃんの叫び声が響いた。振り返ると、彼女は顔面蒼白で、姉を強く睨みつけていた。

「決めつけないでよ! ストーカーが、単純に今日は送ってないだけかもしれない。毎日届けられるなんて、誰も言ってないもの! 気まぐれかもしれないじゃない!」

 それは、反論というよりは、祈りに近い悲鳴だった。親友の無事を信じたい。最悪の結末なんて認めない。そんな彼女の切実な心が、痛いほど伝わってくる。

 姉は、そんな煌良ちゃんを静かに見つめ返し、淡々と答えた。

「ええ。その理屈も通るわ。可能性(パーセンテージ)はゼロではない。……けれど」

 姉が視線をポストの闇に戻す。

「状況が……」

 姉が続けようとした、その冷徹な分析を、私は聞きたくなかった。これ以上、ここで立ち尽くして「可能性」の話をしていることに耐えられなかった。私は弾かれたように、エントランスを飛び出した。傘もささずに雨の中へ駆け出す。

「すみません! ちょっと、すみません!」

 通りがかる人や、隣のマンションから出てきた人に、手当たり次第に声をかけた。

「このマンションの3階に住んでいる、久世さんをご存知ないですか? 最近見かけませんでしたか?」

 雨に打たれながら、必死に頭を下げる。  けれど、返ってくるのは冷淡な反応ばかりだった。

「知らないねぇ」 「付き合いないから」 「急いでるんで」

 迷惑そうに眉をひそめ、足早に去っていく人々。誰も足を止めない。誰も傘を差し出してはくれない。都会の冷たい壁。隣に誰が住んでいるかさえ知らない希薄な関係。

 「優しすぎる彼女」が、誰にでも手を差し伸べていた彼女が、いざ自分が消えてしまった時には、誰にも気づかれずに世界から切り離されている。  その理不尽さが、悔しくて、悲しくて。

 雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔で戻ってきた私を見て、姉は何も言わずに首を横に振った。慰めの言葉も、希望的観測も口にしない。それが、姉なりの誠意であり、残酷な優しさだった。

 その日は結局、何の収穫もないまま、私たちは重い足取りで車に戻り、『霧笛のティーハウス』への帰路についた。

 車内は、行き場のない沈黙に包まれていた。  ハンドルを握る姉も、助手席の私も、そして後部座席の煌良ちゃんも、誰一人として口を開くことはなかった。ただ、タイヤが雨に濡れたアスファルトを噛む音だけが、虚しく響いている。  バックミラー越しに見える煌良ちゃんは、蒼白な顔で窓の外を凝視していた。私は、彼女にかける言葉を必死に探した。「きっと大丈夫だよ」なんて無責任な言葉は言えない。かといって、沈黙を続けるのも冷たすぎる気がする。けれど、どんな慰めの言葉を選んでも、今の彼女には空虚に響くだけな気がして、結局、私は何も言えなかった。

 自分の無力さに、唇を噛み締めることしかできなかった。

 あの日から、時間だけが残酷に過ぎていった。  姉は、いつも以上に無口になり、自室に籠もることが多くなった。休んでいるわけではない。分厚い洋書を広げ、ノートに何かを書き殴り、常に脳をフル回転させている。

「……待つしかないのか」 「情報が足りない……」

 時折漏れる独り言。最も非生産的な「待機」という時間が、姉の思考回路(ロジック)を焦げ付かせているようだった。

 私は私で、煌良ちゃんのことが心配でたまらなかった。  大学の講義の空き時間や放課後、時間さえあれば、思考の海に沈んでいる姉を引っ張り出した。

「お姉ちゃん、煌良ちゃんのところに行くよ」

 そう声をかけると、姉は文句一つ言わず、素直に立ち上がってついて来てくれた。「非効率だ」とも「無駄だ」とも言わない。姉もまた、言葉にはしないけれど、親友の身を案じ、一人にさせるべきではないと考えているのだ。

 私たちは何度も店に通った。  けれど、店内でただ紅茶の湯気を見つめながら、流れない時間を耐え忍ぶことは、私には酷な苦行だった。想像してしまうのだ。今この瞬間も、美月さんがどこかで寒さに震えているのではないか、助けを求めているのではないかと。

「……ごめん。私、ちょっと出てくる」

 私は堪えきれずに席を立った。

「非効率よ。……今動いたところで、状況(ステータス)は変わらない」

 姉の冷静な指摘。わかっている。頭ではわかっているけれど、心が納得しない。私は姉の制止を振り切り、逃げるように店を飛び出した。

 タクシーを拾い、久世美月さんのマンションへと向かう。雨に濡れたインターホンのパネル。祈るような気持ちで部屋番号を押し、呼び出しボタンを押す。  ……反応はない。虚しい電子音が、私の無力を嘲笑うように響くだけだ。

 それでも、私は諦めきれずに周辺を歩き回った。1時間、2時間。傘を差した通行人に声をかけ、近隣の店舗に聞き込みをする。

「すみません、この写真の女性を……」

 返ってくるのは、無関心と拒絶だけ。前と同じだ。誰も彼女を見ていない。誰も彼女を気にかけていない。私の足は重くなり、雨の冷たさが芯まで染み込んでくる。

 結局、何の情報も得られないまま、時間だけが過ぎていった。

 夕暮れ時。私は敗北感を抱えて、仕方なく『霧笛のティーハウス』へと戻った。ドアを開けると、『ボーッ……』と優しい音が鳴る。

 姉はまだ、そこにいた。私が店を出た時と同じ姿勢で、カウンターの端に座り、分厚い英語の専門書を読み耽っている。その変わらない姿が、今の私には皮肉にも見え、同時にひどく安心もした。

 私は濡れた髪を拭いながら、姉の隣に座った。

「……誰も、何も知らないって」

 絞り出すように報告する。姉は、読んでいたページに栞を挟み、パタンと本を閉じた。期待はしていなかったのだろう。失望の色も見せず、ただ静かに、事実として受け止めた。

「……そう」

 それだけの言葉が、重く沈殿する。私たちの願いも虚しく、ドアベルが鳴ることはなく、久世美月さんが店に現れることもなかった。


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