『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔026

姉妹探偵

姉は事もなげにそう言って、電話の発信ボタンを押した。
 相手は、水谷川芽瑠先輩だ。
 スピーカーから呼び出し音が数回鳴り、すぐに繋がった。

『……はい、水谷川です』

 先輩の声は、張り詰めていた。背後から怒号や電話のベルの音が微かに漏れ聞こえる。

「先輩、私よ。……単刀直入に言うわ。明日、久世美月の部屋に入りたい。鍵の手配と、立ち入りの許可をお願い」

 電話の向こうで、水谷川先輩が息を呑む気配がした。

『なっ……無茶よ佳穂! 捜査本部は今、蜂の巣をつついたような騒ぎなのよ?』

 先輩が声を潜め、早口でまくし立てる。

『聞き込みで、美月さんに執拗につきまとっていた不審な男の情報が上がってきたの。まだ身元の特定までは行ってないけど、宗像警部たちはその男を「ホシ」と見て、全捜査員を投入して行方を追ってるわ。現場はピリピリしている。部外者を入れる余裕なんてないわよ』
「……随分と手際がいいわね」

 姉は冷ややかに言った。

「まるで、誰かが用意したレールの上を走っているみたい」
『……どういうこと?』
「警察の目はその不審な男に釘付けになっている。典型的な『視野狭窄(トンネル・ビジョン)』に陥っているわ。……もしその男が、ただのストーカーで、殺しとは無関係だったら?」

 姉の言葉に、電話の向こうの空気が凍りついたのがわかった。

「貴方がたが彼を追い回している間に、真犯人は証拠を消し、次の獲物を物色する。……取り返しがつかなくなるわよ」
『……ッ』
「先輩も、心のどこかで違和感を持っているはずよ。単純なストーカー殺人と、現場の異常性が噛み合わないことに。……真犯人の尻尾を掴むために、どうしても『彼女の部屋』に残された生活の痕跡(あと)が必要なの」

 長い、重苦しい沈黙が流れた。
 電話の向こうで、先輩が葛藤しているのが伝わってくる。組織の論理と、刑事としての勘の間で。
 やがて、大きなため息が聞こえた。

『……明日の午前10時』

 先輩が、絞り出すように言った。

『犯罪心理学博士としての非公式な立ち入りなら、私の権限でなんとか時間を空けるわ。捜査員が男の目撃情報の裏取りで出払っている隙間を縫うのよ。……宗像警部には絶対に内緒だからね』
「感謝するわ」

 通話を終えた姉は、スマホを置くと、疲れ切った顔で画面を見つめている琳久さんに向き直った。

「琳久、今日はもう休んで。貴方も疲れたでしょう」
「うん……さすがに目がシパシパする……。脳みそが糖分を受け付けないよぉ」

 琳久さんが、椅子に沈み込むようにぐったりとしている。

「でも、データの監視(クローリング)は自動で回しとくよ。何かヒットしたら、私のスマホに飛ぶようにしとく」
「ええ、頼むわ。明日の夜、またこの店に集合。美月の部屋で拾った情報と、貴方の解析結果を突き合わせましょう」
「りょーかい。……じゃあ、また明日!」

 琳久さんは気力を振り絞るように立ち上がると、荷物をまとめ、嵐のような勢いで帰っていった。
 あとに残された店内に、再び静寂が戻る。

 姉は、カウンターの隅で膝を抱えている煌良ちゃんに近づいた。
 彼女はずっと無言のまま、冷めた紅茶のカップを見つめていた。今日一日、彼女が受けた衝撃と悲しみは計り知れない。

「煌良」

 姉が、努めて優しい声で呼びかける。

「貴方も休みなさい。……今日はもう、これ以上何もできない」
「……うん。でも、美月が……」
「わかってる。……明日、必ず何か掴んでくるから」

 姉の力強い言葉に、煌良ちゃんはようやく顔を上げ、弱々しく微笑んだ。

「うん……ありがとう、佳穂、彩心ちゃん」

 私たちは店を出て、降りしきる雨の中、帰路についた。
 深夜の街は静まり返り、傘を叩く雨音だけが大きく響く。
 その規則的な音が、まるで犯人の足音のように聞こえて、私は身震いした。


第3章 誤った勝利者

特別捜査本部始動

 時計の針は、午前3時15分を回っていた。
 警視庁本庁舎、捜査一課管理官室。

 窓の外には、眠らない街・東京の夜景が広がっているはずだが、分厚いブラインドがそれを遮断している。
 静寂。
 空調の低い唸りだけが響く執務室で、私は一人、積み上がった決裁書類と向き合っていた。

 当直ではない。だが、この国の治安を守る組織の中枢において、「定時」などという概念は形骸化して久しい。昼間に処理しきれなかった案件を片付けるには、電話も鳴らず、部下の報告も入らないこの深夜帯こそが、最も効率的な時間だった。

 ――ジリリリリリッ!!

 唐突に、デスクの赤い電話が悲鳴を上げた。
 内線ではなく、指揮通信室からの緊急回線(ホットライン)だ。
 ペンを走らせていた手が止まる。
 こんな時間に。嫌な予感が背筋を駆け上がる。私は受話器を引ったくるように耳に当てた。

「……水谷川だ」

『管理官! 緊急報告です! 多摩中央署管内にて、大規模な死体遺棄事案が発生した模様!』

 通信員の切迫した声が、眠気を一瞬で吹き飛ばした。

「状況は?」
『昨夜来の豪雨による土砂崩れ現場から、複数の遺体が発見されました。現場からの報告では……その数、現在確認されているだけで7体! いずれも成人と見られます!』
「……7体だと?」

 私は息を呑んだ。
 単独事故や一家心中ではない。土砂の中から「複数」の「成人」の遺体。
 それは、そこが長期間にわたって「捨て場所」として使われていたことを意味する。

『刑事部長、および副総監にも連絡済み! 至急、登庁されるとのことです!』
「わかった。直ちに登庁の準備をさせる。……長い夜になりそうね」

 受話器を置くのと同時に、私は立ち上がった。
 ジャケットを羽織り、髪のゴムをきつく縛り直す。
 鏡に映る自分の顔は、すでに「管理官」の鉄仮面を被っていた。

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