「待ってください」
凛とした声が、その動作を鋭く制止した。 水谷川芽瑠警視だ。 彼女の視線の先、検視官が慌ただしくタブレット端末を手に駆け寄ってきていた。
「管理官! 本多警部補! ……照合結果が出ました!」
本多刑事の手が止まる。 水谷川警視が軽く頷き、壁面のモニターを示す。
「……報告しなさい」
検視官が端末を操作すると、大型モニターに数枚のレントゲン写真が映し出された。無機質な青白い光が、薄暗い霊安室(遺体確認室)を冷ややかに照らす。
「被害者と思われる久世美月さんの通院歴から、直近の歯科治療のカルテを取り寄せました。ご注目ください。右奥歯のインプラントと、前歯の治療痕の形状」
検視官が淡々と、しかし決定的な事実を告げる。
「遺体の口腔内データと照らし合わせた結果……特徴が、完全に一致しています」
「一致」。
そのたった2文字が、わずかに残されていた「人違いであってほしい」という希望を、冷酷な刃となって断ち切った。 布をめくる必要は、もうなくなってしまった。科学という揺るぎない事実が、死を確定させたのだ。
「あ……ああ……ッ!」
煌良ちゃんが、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。 彼女の慟哭が、冷たいコンクリートの部屋に反響し、鼓膜を震わせた。
私は慌てて彼女を抱きしめ、支えた。 会ったこともない美月さん。でも、煌良ちゃんがどれだけ彼女を大切に思っていたか、そして美月さんがどれだけ優しく、几帳面な人だったかを聞いていた。
悔しさと悲しみが伝染し、私の目からも涙が溢れ出した。私の高い共感性(EQ)が、この理不尽な死に対する憤りを増幅させ、心臓を鷲掴みにする。
けれど、姉だけは違った。
姉は涙も見せず、眉ひとつ動かさず、静かに白布の下の遺体へと近づいていく。 その姿は、冷酷な観察者のようだった。英国留学中にも、現地の警察に協力していくつもの凄惨な現場を見てきた姉にとって、ここは「悲しむ場所」ではなく「解明する場所」なのだ。
姉はストレッチャーの横に立つと、泣き崩れる煌良ちゃんには視線も向けず、本多刑事に向かって静かに、しかし絶対的な命令口調で告げた。
「おじさん。煌良を外へ連れ出して」
「え……?」
本多刑事が戸惑う。
「早くして。……これ以上、彼女の視界に『現実(リアル)』を入れる必要はないわ」
その言葉の鋭さに、本多刑事はハッと息を呑み、即座に娘の肩を抱き上げた。
「わ、わかった……。行こう、煌良」 「いや……美月……美月ぃ……ッ!」
泣き叫ぶ煌良ちゃんを抱えるようにして、本多刑事が重い鉄扉の向こうへと消える。 バタン、と重厚な閉鎖音が響いた、その瞬間だった。
バサッ!!
姉が、遺体を覆っていた白布を、足元の方まで一気に剥ぎ取った。
躊躇も、祈りもない。乱暴とも取れるその所作に、その場にいた全員が一瞬、何が起きたのか理解できずに硬直した。 そして、曝け出された「それ」を目にした瞬間、喉の奥から悲鳴が凍りついた。
「う、ぅぷ……ッ!」
私は強烈な吐き気に襲われ、その場にうずくまった。 胃液が逆流する。視界が明滅する。
そこにあるのは、数日前まで私と同じように笑い、悩み、生きていたはずの人間ではなかった。ただの、破壊された有機物の塊だった。
遺体は、泥と脂にまみれ、見るも無惨な状態だった。 土石流に揉まれたせいだろう。全身の皮膚は至る所が剥離し、赤黒い筋肉が覗いている。折れた木の枝や鋭利な岩によってつけられた無数の裂傷と打撲痕が、青紫色の地図のように体表を覆い尽くしていた。湿った土の臭いと、腐敗し始めた肉の甘ったるい臭いが混ざり合い、鼻腔を侵す。
けれど、そんな自然災害の痕跡すら霞むほどの「異常」が、2箇所あった。


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