3年ぶりの再会。積もる話は山ほどある。まずは労わなきゃ。
「お帰りなさい! お疲れ様、長旅で疲れたでしょ。お腹空いてない? 何か食べて帰る?」
私が矢継ぎ早に質問すると、姉はほんの一瞬だけ思考する素振りを見せ、即答した。
「そうね。タクシーにするわ」
「……へ?」
一瞬、思考がフリーズする。 「疲れたか」「食事はするか」という問いに対して、「タクシー」という答え。文脈が繋がっていない。普通の人が聞けば会話が成立していないと思うだろう。
けれど、私には瞬時にその「行間」が読めた。 姉の脳内処理はこうだ。 『疲れている』→『人混みでの食事は非効率で休息にならない』→『最短で帰宅し、静かな環境で休みたい』→『電車はノイズが多い』→『結論:タクシーで直帰』。
中間の思考プロセスをすべてすっ飛ばし、結論だけを出力する。 これぞ、佳穂の悪癖であり、通常運転だ。親しい人間にしか通じないこの論理飛躍(ショートカット)を、私が一番理解していることを姉は知っているのだ。
私は思わず吹き出しそうになるのを堪え、笑顔で頷いた。
「了解。じゃあ、お家でゆっくりしようか」
「ええ。それが最適解よ」
そう言って歩き出す姉を見て、私はあることに気づいた。 彼女の手には、小さなハンドバッグ一つしか握られていない。
「ところで、荷物は?」
「イギリスから送ったわ。ターンテーブルで待つ時間は、人生の浪費だから」
「ええ……手ぶら?」
「ええ。パスポートと財布があれば、移動には十分でしょう」
まるで近所のコンビニに行って帰ってきたかのような身軽さだ。国際線をハンドバッグ一つで乗りこなすなんて、姉くらいのものだろう。私は呆れるのを通り越して感心しながら、黒いケープを翻して歩く姉の隣に並んだ。相変わらず冷たくて、合理的で、そして懐かしい姉のペース。置いていかれないように、私はしっかりとついていった。
3年ぶりの再会。話したいことは山ほどあるのに、車内には静寂が落ちていた。
当然、姉から話を切り出すことはない。かといって、私が話し出すのを待っているというわけでもない。ただ、無表情で流れる車窓の景色を眺めている。
けれど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。 むしろ、私にとっては救いのような時間だった。
(……静かだ)
物理的な音の話ではない。心の音の話だ。さっきまでの空港の雑踏は、私にとって地獄だった。行き交う人々の焦燥、再会の歓喜、別れの悲哀、あるいは疲労。それら無数の感情が、泥水のように私のアンテナに流れ込み、神経を摩耗させていた。けれど、姉の隣は違う。「無風」なのだ。
姉・佳穂の心は、常に凪(なぎ)のように静まり返っている。感情の起伏が極端に少ないからなのか、それとも強固な論理の壁が感情の漏出を防いでいるのか。彼女の半径数メートルは、他人の感情ノイズが一切遮断された「真空地帯(サンクチュアリ)」のようだった。ここにいれば、私はただの「榎本彩心」に戻れる。勝手に流れ込んでくる他人の痛みに脅かされることなく、深呼吸ができる。
それに、不思議な感覚があった。姉はただ座っているだけなのに、目に見えない透明なシェルターが私を包み込んでいるような気がする。かつて、両親を失った絶望から私を救い出してくれた時と同じ。この圧倒的な「個」の強さが、外の世界の理不尽や悪意から私を遠ざけ、守ってくれているような――そんな絶対的な安心感。やっぱり、お姉ちゃんの隣が一番だ。
心が落ち着いてくると、改めて姉と話したいという思いが溢れてきた。何から話そうか。この3年間の私の頑張りを? それとも、これから始まる二人の生活のことを?どう切り出そうか迷い、少しだけ焦る。私はその焦りをぐっと堪え、心を落ち着かせて、今一番聞きたいことを口にした。
「お姉ちゃん、これからどうするの?」
「決める必要ある? 状況(データ)が揃うまでは、何もしないのが最適解よ」
姉は、即答した。迷いも、溜めもなく。その答えに、私は正直驚き、言葉を失った。
世界最高峰の英知を身につけて帰国し、何事にも先手を打ち、常に最適解を導き出す姉のことだ。「まずは探偵事務所を設立し、日本の警察組織の構造的欠陥を指摘しつつ……」なんていう壮大なビジョンが語られるものだと思っていた。 空港へ向かう電車の中で私が思い描いていた、「姉の並外れた知能指数と私の特異な感情知能を合わせれば、何かを起こせるはずだ」という熱い野望が、出鼻をくじかれた形だ。
あんなにかっこよく「前進しなさい」って言ったのに、自分はノープランなの? ふと口から出そうになったツッコミを、私は慌てて飲み込んだ。姉のことだ、凡人の私には理解できない深遠な理由があるのかもしれない。あるいは、「決めていない」という状態こそが、現時点での最適解なのかもしれない。
私は、努めて普通に応えた。
「そっか、決めてないんだ」


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