姉はハンドルを切り、交差点をスムーズに曲がりながら、淡々と言った。
「それは……、『トロフィー』と『スーベニア』の混合ね。あるいは、『部分愛(パーシャリズム)』による『物象化(オブジェクティフィケーション)』の極致」
出た。姉の悪い癖だ。 専門用語で壁を作り、感情を遮断しようとしている。 でも、今の私にはわかる。その鉄壁の論理の向こう側で、姉の精神が「不快感」と「嫌悪」でささくれ立っているのが、手に取るように伝わってくる。
「……ちょっと待って。用語が難しすぎるよ」
私はバックミラー越しに姉の瞳を見つめ、問いかけた。
「トロフィーとスーベニアって、違うものなの?」 「全く違うわ。定義が異なる」
姉はアクセルを一定に保ちながら、まるで自分自身の思考を整理するように、あるいは感情を殺すための儀式のように解説を始めた。
「『トロフィー』は、狩人が壁に飾る鹿の首のようなものよ。犯行の成功、警察に対する優越感、そして対象を支配した証(あかし)。これは犯人の自己顕示欲を満たすために採取され、誇示される」 「じゃあ、犯人は警察に見せつけるために……」 「いいえ。今回のケースは、どちらかと言えば『スーベニア』の側面が強い」 「スーベニア……お土産?」 「そう。旅行の思い出の品と同じよ。犯人は、犯行時の興奮や幻想(ファンタジー)を、後から何度も反芻(はんすう)したいと願う。そのための『記憶の鍵(メモリー・トリガー)』として、体の一部を持ち帰るの」
姉の解説が進むにつれて、車内の空気が鉛のように重くなっていく。 隣で震えていた煌良ちゃんの嗚咽が、一際大きくなった気がした。その悲しみの波が、物理的な衝撃となって私を打ち据える。 けれど、知らなければならない。敵の正体を。
「今回の犯人にとって、被害者そのものは『器』に過ぎない。彼が執着しているのは、あくまで『手』だけ。……これを『物象化』と言うわ。人間を人間として見ず、自分の欲望を満たすための『モノ』として認識する心理状態よ」
人間を、モノとして見る。
その言葉を口にした瞬間、姉がハンドルを握る手にぐっと力がこもったのを、私は見逃さなかった。 姉が感じている怒りの正体――それは恐らく、犯人のこの身勝手極まりない世界観に対する、生理的な嫌悪だ。 論理と尊厳を愛する姉にとって、他者の人生を「部品」として扱う犯人の論理は、この世界で最も許しがたい「バグ」なのだ。
「……でも、それなら写真とか、動画でもいいはずじゃ……」 「それでは『質感』が足りないのよ」
姉が私の言葉を遮った。その声には、冷たい刃のような響きが混じっていた。
「彼は、雨の中で差し出された手の温もり、肌の感触、その『優しさ』が具現化された形そのものを求めている。写真では代替できない、3次元の『実物』を手元に置く必要がある。……でも、ここに決定的な矛盾が生じる」 「矛盾?」 「ええ。生体パーツは腐敗(デコンポジション)する。永遠にその美しさを保つことはできない。時間が経てば、彼の愛した『白く美しい手』は、腐って崩れ落ちる」
姉の目が、バックミラー越しに鋭く光った。
「だから彼は、持ち帰った手を何らかの方法で『保存』あるいは『加工』しようと試みているはず」 「保存……」 「ホルマリン漬けか、剥製(はくせい)か、あるいは……樹脂封入か。いずれにせよ、それを行うには相応の知識と設備、そして腐敗臭や作業音を外部に漏らさない、完璧に隔離された『プライベートな空間(アジト)』が必要になる」
ブツブツと、再び姉の呟きが加速する。
「……空間の確保。防音設備。大型の冷蔵・冷凍設備。……一般の住宅街では不可能。もっと孤立した、あるいは特殊な構造の建物……」
姉の脳内で、条件に合う場所の絞り込み(スクリーニング)が始まっている。 その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
『アジト』。 犯人が潜み、被害者の手を愛でている場所。 そこに行くということは、私たちもその犯人と――人間の形をした怪物と、対峙するということだ。
その瞬間、私の背筋に冷たい蛇が這い上がるような悪寒が走った。 指先が、膝の上で小刻みに震え始める。
怖い。 殺されるかもしれないという物理的な恐怖ではない。 私の心(アンテナ)が、犯人の心に触れてしまうことへの、根源的な恐怖だ。
私は思い出す。 まだ高校生だった頃、渋谷の雑踏ですれ違った、ある男のことを。 何の変哲もない、くたびれたスーツ姿のサラリーマンだった。 けれど、すれ違いざまに肩が触れそうになった瞬間、私の脳内にドロリとした黒いヘドロのようなものが、暴力的に流れ込んできたのだ。
底知れない憎悪。腐った肉のような欲望。そして、世界に対する絶対零度の無関心。 私はその場にうずくまり、激しく嘔吐した。
ただ、すれ違っただけなのに。彼の「波長」に一瞬触れただけで、私の精神は汚染され、呼吸さえできなくなった。 数日後、その男が通り魔事件の犯人として逮捕されたニュースを見たとき、私は理解したのだ。
この世には、決して共感してはいけない、触れてはいけない「魂の形」があるのだと。


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