『姉妹探偵』第1編 冷徹な天使と、慈悲深き悪魔018

小説

 張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。  姉は、宗像警部の葛藤など意に介さない様子で、再び遺体に視線を戻していた。

「……始めるわよ、彩心。犯人は、7人を殺してもまだ満足していない。次の雨が降る前に、必ず見つけ出す」

 その横顔には、天才としての冷徹さと、犯罪心理学者(プロファイラー)としての静かなる覚悟が宿っていた。  私は涙を拭い、力強く頷いた。

 その時、水谷川先輩が、物言わぬ遺体を静かに見下ろしながら、独り言のように呟いた。

「……煌良には、残酷なことをしたわね」

 その声は微かに震えていたが、すぐに鉄のような響きを帯びた。

「けれど……早期に身元(ホトケ)が割れたのは、事実よ。被害者の交友関係、足取り、そして消えた日時。それらを洗う起点ができたことは、捜査本部にとって計り知れない優位性(アドバンテージ)になる」

 先輩は顔を上げ、きつく唇を結んだ。  その瞳には、友人の死を悲しむ涙ではなく、この犠牲を無駄にはしないという、研ぎ澄まされた意志の光が宿っていた。

 (……この人も、同じだ)

 私は戦慄した。  姉が「犯罪心理学者(プロファイラー)」としての論理で感情を切り捨てるなら、この人は「警察官(指揮官)」としての責務で感情をねじ伏せている。  二人とも、優しくないわけじゃない。ただ、背負っている覚悟の桁が違うのだ。冷徹に見えるその横顔は、悪意と戦うために自らを鋼に変えた、戦士の顔だった。

「……後は任せて。貴方たちは行きなさい」

 先輩の短い言葉に背中を押され、私と姉は重い鉄扉を開けて廊下へと出た。

 霊安室(遺体確認室)の前の薄暗い廊下。  その正面にある長椅子に、小さく丸まった背中があった。

 煌良ちゃんだ。  父である本多刑事が宗像警部を追って行ってしまったため、彼女はたった一人、冷たいベンチに取り残されていた。  顔を両手で覆い、肩を小刻みに震わせている。その姿は、いつもの明るい彼女からは想像もつかないほど脆く、壊れそうに見えた。

「……煌良ちゃん」

 私が声をかけると、彼女はビクリと肩を跳ねさせたが、顔を上げる気力もないようだった。  私は駆け寄り、彼女の冷え切った体を抱きしめるようにして支え起こした。

「……帰ろう」 「う……うん……」

 煌良ちゃんは、赤く腫れ上がった目で力なく頷いた。その体からは力が抜けきっており、私が支えていなければ崩れ落ちてしまいそうだった。

 姉は何も言わず、ただ先を歩き出す。その背中が「ついて来なさい」と語っていた。  私たちは、湿った重い空気が澱む地下廊下を後にし、雨の降る地上(駐車場)へと向かった。

 警視庁を出ると、雨足はさらに強まっていた。  私たちは、姉が購入したばかりの真っ赤な車に乗り込み、帰路についた。

 私は迷わず後部座席のドアを開け、煌良ちゃんの隣へと滑り込んだ。  バタン、と重たいドアを閉める音と共に、外界の湿った空気が遮断される。

 けれど、車内にはもっと重苦しく、息が詰まるような空気が充満していた。  ワイパーが激しく動き、フロントガラスを叩く雨を拭い去っていく。  けれど、拭っても拭っても、世界は灰色のままだ。  密閉された軽自動車の車内は、逃げ場のない「感情の箱」と化していた。

「うう……美月……ごめんね、美月……」

 隣で身体を小さく丸め、声を殺して泣く煌良ちゃん。  私は彼女の震える肩を抱き寄せ、その背中を優しくさすり続けた。

「煌良ちゃん……大丈夫、とは言えないけど。今は、泣いていいから」

 言葉にしながら、私自身の胸が焼けつくように痛んだ。  私の高い共感力は、時に呪いとなる。

 煌良ちゃんから溢れ出る、深い喪失感、後悔、そして底知れぬ悲しみ。それらが目に見えない波となって、私の心臓を直接握り潰そうとしてくる。  苦しい。息が詰まる。  彼女の痛みが、そのまま私の痛みとして共鳴(ハウリング)してしまう。

 そんな感情の嵐の中で、運転席の姉だけが、台風の目のような無風地帯にいた。  バックミラー越しに見えるその瞳は、能面のように無表情だ。  普段の私は、この「感情を持たない姉」の近く――助手席が一番落ち着く。姉の周りだけは、私が受信してしまう他人の感情ノイズが一切ない、静寂の空間だからだ。

 ――けれど、今は違う。

 後部座席に座る私の耳にも、微かに聞こえてくる。

「……7体。周期はおよそ半年。冷却期間(クーリング・オフ)の短縮が見られる……保存状態の差異……儀式の進化……」

 姉の口から漏れる、独り言のような高速演算。  その言葉の端々から、チリチリとした焦げ臭いような感覚が伝わってくる。

 これは……怒り?

 普段なら決して漏れ出さないはずの「感情」が、ささくれ立った棘(とげ)のように姉から滲み出ている。  それは、親友の友人を理不尽に殺されたことへの義憤なのか。  それとも、みすみす犯行を許してしまった自分自身の「論理の敗北」に対する、強烈な自己嫌悪と苛立ちなのか。

 微かだが、確実に存在するその「熱」に、私は戦慄した。  あの冷静沈着な姉が、静かにキレている。

 私は、そのピリついた空気を確かめるように、バックミラー越しに姉へ問いかけた。

「ねえ、お姉ちゃん」 「何?」

 姉は視線を前方から外さずに答えた。声色は平坦だが、やはりどこか硬い。

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