私と佳穂は、並んで大理石のカウンターに腰を下ろした。 磨き上げられた天板に、アンティークランプの柔らかな光が反射している。
「佳穂、何にする?」
煌良ちゃんがエプロンの紐をキュッと結び直しながら、弾むような声で尋ねる。 姉は迷う素振りも見せず、短く答えた。
「煌良に任せるわ」
昔からそうだ。 論理と数値を愛する姉だが、紅茶選びに関しては、煌良ちゃんの「感性」に全幅の信頼を置いている。煌良ちゃんの淹れる紅茶は、その時の客の気分や体調に合わせて完璧に調整(チューニング)されており、いつだって格別に美味しいのだ。 下手に知識をひけらかして注文するより、この店の主に委ねた方が、至高の一杯にありつける――それが、姉の導き出した「最適解」なのだろう。
私も姉にならい、居住まいを正した。
「私も、お任せでお願いします」
「はい、はい、了解しました!」
煌良ちゃんが職人の顔になり、棚からいくつかの紅茶缶を取り出す。 手際よく温めたポットに茶葉を躍らせ、高い位置から湯を注ぐ。 シュワァァ……という心地よい音と共に、湯気が立ち上り、芳醇な香りが店内に広がっていく。時間が、ゆっくりと溶けていくようだ。
コト、と微かな音を立てて、繊細な金縁のティーカップが姉の前に置かれた。
「はい、佳穂」
続いて、別の缶から選ばれた茶葉で、私のための一杯が用意される。
「はい、彩心ちゃん」
私の紅茶が出てくる頃には、姉はすでに琥珀色の液体を口に運び、静かに目を閉じていた。 その横顔は、ノイズのない世界に浸っているようで、神々しくさえある。
「どう、佳穂。味は?」
煌良ちゃんが自信ありげに問う。 姉はカップをソーサーに戻すと、淡々と、しかし正確無比に成分分析(レビュー)を始めた。
「……ええ。悪くないわ。 ダージリン・セカンドフラッシュ特有のマスカテルフレーバーに、ヌワラエリヤ(Nuwara Eliya)のグリニッシュな爽やかさ。それと……ほんのりベルガモット、アールグレイの香りね。計算された配合(バランス)だわ」
一分の隙もない分析に、煌良ちゃんがパチンと指を鳴らす。
「さすがね。大正解! 『紅茶のシャンパン』と言われる香り高いダージリン・セカンドフラッシュをベースに、花のような洗練された香りを持つヌワラエリヤ(Nuwara Eliya)をブレンドして、ほのかに、本当にほのかにベルガモットの香りを加えてみました」
煌良ちゃんはカウンターに身を乗り出し、悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「佳穂専用ブレンド、題して――『帰国した天才』。どう?」
その瞬間、姉の動きがピタリと止まった。 何も答えず、ただじっと、無言で煌良ちゃんを見つめている。
「……ねえ、何か言ってよ」
味は最高なのに、ネーミングセンスだけが壊滅的だ。それさえなければ完璧なのに、と私は心の中で苦笑する。姉の沈黙は、呆れを通り越して「処理不能」のエラーを起こしているのかもしれない。
「彩心ちゃんはどう?」
矛先が私に向いた。 私は慌ててカップを持ち上げ、一口、口に含む。 温かく、優しい甘みが口いっぱいに広がり、再会の緊張で強張っていた心が解けていくようだった。
「……おいしい」
「彩心ちゃんのは、マイルドな飲みやすいディンブラをベースに、ルイボスとハニーブッシュをブレンドし、香りと甘みを白桃で加えてみました」
そして、煌良ちゃんは胸を張った。
「彩心専用ブレンド、題して――『感情の通訳者』。 人の感情を敏感に読み取っちゃう彩心ちゃんには、心を癒やすこの一杯がピッタリでしょ?」
ブフォ、と吹き出しそうになるのを必死で堪える。 本当に、恥ずかしい。顔から火が出そうだ。
「あ、ありがとう……」
私は精一杯の愛想笑いを浮かべつつ、この微妙な空気を変えるべく、話題を店のことに移した。
「それにしても、煌良ちゃんのお店、素敵だね。どう、佳穂、気に入った?」
姉は店内をゆっくりと見回した。
「そうね。幻想的で静かで……静謐(せいひつ)が保たれている。いいスペース(環境)だと思うわ」
「気に入ったみたいだね」「よかったね、煌良ちゃん!」
私たちが口々に言うと、煌良ちゃんは頬を少し染めて、「ありがとう」と小さく呟いた。
そこは恥ずかしがるところなんだ、とツッコミが喉まで出かかったが、ぐっと飲み込む。
ふと、姉が興味深そうに煌良ちゃんに尋ねた。
「それにしても、なんでまた紅茶店を始めたの? 上智大学の英文学科だったでしょう。卒業したの?」
「うん、卒業したわよ。でもね、英語や英文学を学んでいるうちに、いつの間にか紅茶の魅力そのものにハマっちゃって。卒論も『英国文化における紅茶の歴史的考察』なんて書いたくらい」
煌良ちゃんは愛おしそうに店内の缶を見上げた。
「そしたら、ちょうど父が管理しているこのビルの1階と2階が空いたのよ。『ここだ!』って思って、父に頼み込んでお店を始めさせてもらったの」
「……管理、というか所有よね」
姉はカップを置き、冷徹な事実を指摘した。
「一介の刑事の給料で、都内の一等地にビルを持てるわけがないもの。経済的に矛盾しているわ」
姉の言う「一介の刑事」。 言葉通りに受け取れば「ただの刑事」だが、煌良ちゃんのお父さん――本多 景忠(ほんだ かげただ)さんは、決して「ただの」刑事ではない。
警視庁刑事部捜査一課。殺人などの凶悪犯罪を扱う、警察組織の花形部署に所属するベテラン刑事だ。多忙を極める激務であり、その地位と責任は重い。 けれど、いくら捜査一課の刑事といえど、公務員であることに変わりはない。
姉の言う通り、この目白の閑静な高級住宅街に自社ビルを所有できるほどの収入があるとは、論理的に考えにくいのだ。
「もう、相変わらず鋭いんだから」
煌良ちゃんは苦笑しながら、肩をすくめた。
「うちは曽祖父の代からの地主で、たまたまこの辺りに土地やビルを持っていただけよ。父はあくまで『管理人(大家)』兼『刑事』。だから、家賃はちゃっかり取られてるんだから」
「ほんと、あなたのお父さんは、娘に甘いのか厳しいのかわからないわね」
「頼れる資産は頼らないとね」
煌良ちゃんは悪びれもせず、けろりと言う。
「気楽ね」
「何言ってるの、ちゃんと売り上げも出てるんだから!」
煌良ちゃんがムキになって反論する。 姉は短く「そう」と呟くと、誰もいない客席へと視線を流し、冷徹な事実を口にした。
「私たちしか客、居ないけど」
「今・は・ね!」
私と煌良ちゃんの声が見事にハモった。 煌良ちゃんが可笑しそうに笑い声を上げ、私もつられて微笑む。 姉だけは表情を変えず、ただ静かに紅茶の香りを楽しんでいる。


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