姉がイギリスへ発つと決めたのは、高校3年の秋だった。当時、私はまだ中学生。東大への進学確実と言われていた姉が、突然「ロンドン大学(UCL)へ行く」と言い出した時の、職員室の騒ぎは今でも覚えている。
『なぜ、わざわざ海外なんだ? 日本の司法を変えるなら東大が一番の近道だぞ』
担任の必死の説得に対し、姉は無表情で、絶対零度の冷たさを含んだ声でこう答えたという。
『日本の法学は「裁くための学問」です。ですが、私が求めているのは「防ぐための科学」です』
その夜、私は姉の部屋で、淡々と荷造りをする彼女の背中に問いかけた。
「お姉ちゃん。……本当に行くの?」
姉は手を止めず、綺麗に畳まれたシャツをスーツケースに詰め込みながら答えた。
「ええ。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の犯罪科学部門(Department of Security and Crime Science)は、世界で唯一、犯罪を『科学的現象』として解析し、予防システムを構築する研究を行っている。今の私に必要なのは、法解釈の知識ではなく、悪意を見抜き無力化するアルゴリズムよ」
「……どうして? どうしてそこまでして、『犯罪』にこだわるの?」
私の問いに、姉の手がピタリと止まった。長い沈黙。部屋の空気が、急激に張り詰めるのがわかった。
姉がゆっくりと振り返る。その瞳の奥には、決して消えることのない暗い炎が揺らめいていた。
「……バグだからよ」
「バグ?」
「この世界には、論理(ロジック)では説明のつかない致命的なエラーが存在する。……何の罪もない人間が、理不尽な悪意によって損なわれ、奪われるというエラーが」
私は息を呑んだ。言葉にはしなくても、わかっていた。姉が見ているのは、私ではない。かつて――姉が9歳の時に巻き込まれた、あの忌まわしい「誘拐事件」の記憶だ。
当時、幼かった私は何も知らなかった。けれど、後から聞いた話では、姉は身代金目的で誘拐されたのだという。
多忙だった両親に代わり、幼い私たちの面倒を見てくれていたベビーシッター、鳴海鏡子(なるみ きょうこ)さん。真面目で優しく、母も全幅の信頼を寄せていた彼女は、その日も姉に付き添っていた。
彼女は、連れ去られようとしている姉を救おうと犯人に立ち向かい、無残にも、姉の目の前で殺された。姉を助けようとしたばかりに巻き込まれ、犯罪者の手によって、その優しい人生を理不尽に断ち切られたのだ。
その一部始終を見ていた姉。恐怖と絶望の中で数日間監禁され、心に深い傷を負った。
そんな彼女を地獄から無事救い出したのが、所轄の刑事さんだった。今、こうして姉の帰りを心待ちにできるのも、その刑事さんのおかげだ。
姉は、その時の自分の無力さを許していなかったのだ。大切な人を目の前で奪われ、何もできなかった自分自身を。そして、そんな理不尽がまかり通るこの世界を。
「私は知りたいの。人の形をした怪物が、なぜ生まれるのか。その思考回路(ロジック)はどうなっているのか。……そして、どうすればその『バグ』を、発生する前に潰せるのか」
姉は、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。そこには、鏡子さんの形見であるロケットペンダントが下がっていたはずだ。
「感情論や精神論では、怪物は止められない。奴らを狩るには、奴ら以上の知識と、冷徹な計算式(ソリューション)が必要なのよ」
その時の姉の顔は、あまりにも美しく、そして悲痛なほど孤独に見えた。彼女は「魔王」と呼ばれるほどの頭脳を武器に、たった一人で「悪意」という名の風車に挑もうとしているドン・キホーテのようだった。
「……待ってるから」
私は震える声で、それだけを言うのが精一杯だった。
「私が最強の助手(バディ)になれるくらい強くなるまで、日本で待ってるから。だから……必ず帰ってきてね」
姉は一瞬だけ、その能面のような表情を崩し、困ったように眉を下げた。
「……非合理的な提案ね。でも、考慮に入れておくわ」
そう言い残して、姉は霧の都へと旅立っていった。


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